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勝負運アップ!?川崎渡田の「新田神社(にったじんじゃ)

2024.05.07

新緑がまぶしいこの頃。
汗ばむような陽気も多くなってきましたね。

天気に恵まれた日も多かった先日の大型連休。
晴天の日に散歩がてら地域の神社へお参りしてきました。

川崎渡田の地元神社へ

閑静な住宅街の一角。
地元中学校のすぐそばに位置します。
黒石に赤文字で名前が刻まれた社号碑が入口です。

新田義貞(にったよしさだ)を主祭神に祀る「新田神社」。
文化や伝統のシンボルでありながら、地域のまちづくりや結びつきを支える存在です。

8月の第一土曜日と日曜日が例祭日であり、御神輿や奉納演芸、屋台、催しなどがおこなわれます。

例祭のメインイベントである神輿渡卸(みこしとぎょ)は、元気な掛け声とともに神輿が地域を巡行。街が活気づくお祭りです。

奉納演芸では、境内で氏子や地域住民によって歌や踊り、楽器演奏などが披露されます。
地域の人々にとって聞きなじみのあるご当地ソングや、お面を着けた人々の伝統的な踊りを見られるのもこの特別な日のみです。

境内で猫と遭遇!

鳥居をくぐると神社の敷地内で、二匹の猫が静かに寝そべっていました。
のびのびとリラックスしたその姿にとても癒されます。

神社を訪れるとたまに姿を見せてくれるこの猫たち。
神社をやさしく見守っているかのような様子で、神聖な存在のように感じられました。

訪れる人々に笑顔と癒しを与えてくれる存在です。

そのまま真っ直ぐ参道を進むと本殿があります。
厳格で重厚な雰囲気の石造り。
神社が古くからこの土地に存在していることが伝わる造りです。

静かに手を合わせて心を込めて願掛けしてきました。

「新田神社」の創建理由とは?

難攻不落の鎌倉幕府を滅ぼした武将として知られる、新田義貞の出身は上野国新田荘(現群馬県太田市)。
なぜ川崎渡田に祀られているのかの理由は家臣に起源があります。

彼の家臣の一人である亘新左衛門尉早勝(わたりしんざえもんのじょうはやかつ)。

のちに「新田四天王」と称された、篠塚伊賀守、粟生左衛門、畑六郎左衛門、亘新左衛門という4人の重臣のうちの1人だったそうです。

渡田を領地として治めていた亘新左衛門尉早勝。
この人物のふるさとが渡田(渡田村)であり、新田義貞の鎌倉攻めの時にも渡田から加勢したと伝えられています。

そうしたことから川崎の土地にゆかりのある家臣が、主君を祀ったというのが「新田神社」。
新田義貞の越前国(現福井県)での討死後、遺品である「差添の名剣」「七ツ入子の名鏡」「錦の陣羽織」を持ち帰り、冥福を祈り供養して祀ったと伝えられています。

その後、戦禍によって建物が焼失してしまいましたが、1956年(昭和31年)〜1968年(昭和43年)の10年以上の歳月をかけて社務所、社殿 神楽殿が再建されます。

そして現在に至るまで地域住民の心の拠り処となっています。

新田義貞公像の銅像が!

参拝を終えて境内を見渡すと、参道左側には「御祭神新田義貞公像」が見えます。

1962年(昭和37年)7月に制作されたもののようです。
果実が実る木を背景に銅像の周囲には柵が備え付けられていて、丁重に管理されています。

亘新左衛門尉早勝の主君への忠誠心と、それを後世へ残し続けるふるさとの人々の誠実な思いがひしひしと伝わり、あらためて神社の存在に誇りを感じました。

亘新左衛門尉早勝の墓も!

その隣には「亘新左衛門尉早勝の墓」もあります。

鎌倉時代にお墓の代表とされた五輪塔。
昔から親しまれている墓石で、新田義貞公像と並んで祀られています。

案内板によれば、渡田や小田地区には「新田四天王」の末えいと伝わる家系があるそうで、地区の開発前には四天王ゆかりの塚もあったのだとか。

歴史に名高い新田義貞とその家臣を祀った神社。
武将好きはもちろん、勝負運や開運、必勝祈願を求めに一度足を運んでみてはいかがでしょうか?

エリア情報

新田神社

住所:神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目14-8
アクセス:JR東海道線・京浜東北線・南武線「川崎」駅東口より臨港バス乗車、「渡田中学校入口」下車 徒歩約2分
TEL:044-344-1038